●2007年02月23日(金)
存在感について ホアン・オガジャは 彼がどんなに素晴らしい踊り手か 知らない人には いい教師に見えないらしい プロのレッスンに参加していたドイツ人が ひっどい教師だ 二度とゴメンだ、とか憤慨しているので 私は目が丸くなった。 彼が舞台に出てくると空気まで変わるっていうのは スタジオでジャージ姿でいると想像がつかないのかな、と思い直した。 私のように舞台の彼を知っていて その技術を紐解いてもらうと へえーーーーーたったのこれしかしてないの!!??と感心してしまう。 いかに偉大なアーティストかが その意外すぎるほどシンプルな足で分かる。 そういう感心の仕方は 彼のダテ姿を知らない人にはできないのかもしれない。 ホアンの足は唖然とするくらいに簡単なのだ。 でもコンパスが水際立っているので がつんと一個のゴルペを入れただけで地球が割れた、ていうくらいの効果が出る。 スリッと足を擦っただけで 闘牛場の真ん中に立った 闘牛士の最後の一撃の緊張がみなぎる なかなか並みな才能ではこうならない。 何をしているのか分析して 始めて彼の偉大さが分かる。 匂い立つような男の色気があり、研ぎ澄まされた剣のような鋭さと ダイナミックで伸びやかな肢体が 炎のような情熱でコンパスを切り裂いて行く。 なんてみごとなバイラオールかと感動する。 何時見ても凄い。 素性も際立っている。 カデイスの 「ジプシープリンス」の異名を取った金髪の 最高の美男子だった人が 彼のお爺さんに当たる。 この人はフラメンコ史に残るような踊り手だったらしい。 その名門の彼を ドイツ人がぼろくそに言う(笑) あまりの事に なんだか愛嬌を感じてしまいます。 レッスン中にホアンは 何回もその辺に出て行くのだ。 じゃあ この足、二分あげるからちゃんとできるようにしてね とか言っては 外に行って水飲んだり いろんなことする。 私と良く似ているのだ。 こういうのをドイツ人は 憎むらしい。 フラメンコの霊感に溢れたアーティストっていうのは 律儀に時間で貸切みたいになって教える事ができにくい。 イライラしてしまうのもあるし、実際 難しいのだから 途中で区切って 二分、三分、五分ってもらうのは 本当には正しい教え方だと私は思う。 先生もイライラしないで済むし、生徒も難しい物のオンパレードだけで終わることにならなくていい。 払ってあるんだから一分も惜しんで教えろっていうのは 本当には 生徒のためにならないのだ。 昔、マノロ・マリンなんて本当にひどかった 途中で隣のバーに行っちゃったりしたものだ。 個人レッスンなのに ふらりと入ってきた近所の人と話し込んだり、新聞を読み始めたりした。 これはたまったものではないけれど 昔の先生っていうのは これが当たり前だった。 今から思うと サラリーマン化してない生え抜きのアーティストだから こんな風にしないと下手な生徒をじいっと見ていると 疲れきったり インスピレーションが枯渇したのだと思う。 ほとんどの外人が 素晴らしいと絶賛する アンヘル・アティエンソだと ドイツ人からヒンシュクを買うこともない。 この、いつもパソコンに向かって帳簿なんか見てる 電脳フラメンコ教師の彼は 本当に一時間中のレッスンの ただの30秒も無駄にしない。 生徒としては こちらのが正統派だと思うかもしれない。 でも この間考えてみたのだけれど こんな風にしてびっしりと振付けた作品は とても踊れたものではない。 舞台に出て来た時、 ホアン・オガジャは 人類の奇跡ってくらいに素晴らしいけど この律義者のアンヘルは ぎっしり詰まった踊りを 目いっぱい踊っても もしかして つまらないんじゃないかなと 思った。 びっしりの碁盤の目のような踊りは お金を払っただけはあった というレッスンの感想を持てるかもしれないけど その実 舞台にはそのまま乗せれない つまらない事のオンパレードになりかねないな、と感じた。 なかなか興味深い比較だ。 身もふたもないみたいな感想だけれど 重厚な存在感と アーティストの霊感に溢れた素晴らしい踊りっていうのは ぎっしり詰まったお弁当箱みたいな芸とは違うのだ。
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