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2008年03月のセビリア発信・つれづれ草
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●2008年03月29日(土)

王立アカデミー訪問の巻き
ー東洋博物館ー

俳句のゼミで 金曜の朝早くに王立アカデミーにみんなでグティエレス神父の講義と博物館見学に行く予定だと言われた。

もうずっとグティエレス神父の連絡先を訪ねてぐずぐずしていたので ロドリゲス教授が 
「丁度いい、学生と一緒に講義にいらっしゃい」と言う。

またもや 俳句のゼミからついにグティエレス神父の日本文化の講義にお招きいただけることとなった。

目まぐるしいまでの人脈の速さだ。

ついに今朝、Japon y Occidente の筆者にして日本文化の権威、グティエレス神父にお会いした。
輝くような人格者で
ヘレス出身のイメージ通りの明るい性格のきびきびとした先生だった。
思っていた以上にダイナミックにして力みなぎるインテリで
とてもチャーミングだった。
多分75歳くらいと教授に言われていたのだけど 
きびきびした足取りとユーモアが絶えない語り口の軽妙さといい、いわゆる老人ではまったくなかった。
目が輝いていて曇りというものがなかった。
信仰の強さというか、人の理知の輝きに心から感動した。

1956年から15年間 日本に暮らし、
上智大学で教鞭もとられた。
在日中に美術の本を出版されいる。

スペイン語で書かれたものは

日本の文化全般についてのもの一冊
それを掘り下げた絵画とセラミックについての物が一冊
建築について掘り下げた物が一冊
侍について書かれたものがこの一月に出された。

私はこれを各二巻ずつ買い求めて
娘が独立する時に嫁入り道具として持たせようと思った。

先生の書かれた本のスペイン語が素晴らしい。

芳醇なワインのように良いスペイン語なのだ。

日本でもとかくに学者の書き物は 難解で国語としてはかなり劣悪だったりするものだけれど 
スペイン語でも勿論同じような現象がある。

優れた学者が必ずしも優れた書き手ではないのだ。

でもこの先生の書かれる物は 国語として一流の域に達していて
しかも 行間に溢れるような情熱と日本文化への限りない憧憬と尊敬とが暖かく息づいている。
本当に素晴らしい文章なのだ。

私はページを読み進む事ができない
なぜなら何度も後戻りして 味わってしまうからなのだ。

近年、こんなに心を打たれた事も珍しい。
素晴らしい出会いだった。

今日は学生も大勢いて 講義が三時間にも及んだので
後日 ゆっくりお会いしましょうと約束をして
走り書きのお電話番号を嬉しく抱いて帰路に着いた。

ああ、文化と芸術の道しるべとなる人々に幸あれ!
そんな敬虔な気持ちに打たれて帰りました。

皆さんも 良い週末を!
一週間のご褒美として 楽しく過ごして下さいね。

●2008年03月27日(木)

スペイン語の俳句って....

昨日は久々のセビリア大学構内で懐かしかった。
まずその大きい事、遺跡から出てきた大理石の像なんかが
構内のあちこちに立っていて 古いヨーロッパの学府っていう雰囲気がいっぱいだった。
パイプをくゆらしながら廊下を通り過ぎて行く教授、
お菓子の小さい袋をぶら下げてクラスに行くみたいな女子学生、
質素で粗末な服装にめいっぱいおしゃれしているみたいな
若い人達。
試験やつれしていて くすんだ子達....

ああ、そうだな、こんな時代があったのだな、と思う。
もう一度学生になってスペイン史でもやってはどうだろうと
ちらっと血迷ったけれど、ラテン語とギリシャ語を避けて通れないのだと思うとぞっとしてしまった。

スペイン語の俳句は 中々難しそうに見えた。
日本語には冠詞がないから 5,7,5も楽に作れる。

los hombres など、冠詞がついてしまうと
ただの 「男達」の二語で済むところが もうこれだけでめいっぱい字数を食ってしまう。
この辺の工夫でとても苦労していた。

みんなが作って、詩としての音に苦労している中、
逆にこれを本物の日本語で俳句にする作業を
ちょっとしてみて 私も辛酸をなめた(笑)

日本語には季語があるから 
春だの秋だの言わないで済むというのも
みんなでテーマにしたけれど 
こういうものをスペイン語で確立させるのは大変だなと感じた。

来週、ヘレスで俳句の会があるから出席して欲しいと言われたのだけど とても行かれそうにない。

ヘレスでは活花展もやったらしい
折り紙の人気など物凄いらしい。
学生達が中心になって 日本の文化を広めようとしている。

私財をなげうっても、と言う感じがするのだ。
この熱意が何に由来しているのか
もう少しこの人達とお付き合いしてみないと分からない。

私のわくわくスペインは どこで買えるのかと言われた。

ロドリゲス教授にも励まされたけれど
学生達も私の頭にある宿題「日本」のスペイン語出版を
一日も早く世に出して欲しいと又 言われてしまった。

本当に出版社がちゃんと出してくれるだろうかという危惧があるのに 20章から成る大作を書き上げるのは苦しい。
自分の気の向くままのエッセイと違って
まちがってはいけない数字などを挙げての地理歴史など
推敲に苦労するのは目に見えている。

うーーーーーん、お尻に火がついて来たって感じです 泣


●2008年03月26日(水)

明日は日本文化大使で 一句...

セビリア大学で日本文化の講義が盛んらしい。

今月の初めに 九日間で36時間の日本文化の講義があったのだが、定員を上回ってウエイティング・リストまで出たという。

この一日四時間の講義の中に 日本とフラメンコの関係という
レクチャーも含まれていたというから興味深い。

懇意の教授で もと上智大学にいらしたロドリゲス教授に
お電話してご無沙汰のお詫びを告げると 今日是非 会いにいらっしゃいと言われたので 車を転がして
ずうっと借りっぱなしの
支倉常長の資料をお返しに行った。

この先生は 井原西鶴の研究家にして権威で
日本の古典に詳しいばかりか 村上春樹などの作家のものも
翻訳していらっしゃる。

明日、セビリア大学の歴史の講義の中で俳句をされるそうなので
是非、授業に来るようにとお招きいただいた。

受講の学生達は スペイン語で俳句を作るのだそうで
私には 日本語で作ってもらいたいという要請があった。
俳句ねぇ...

天高く、空に柿の実 あかあかと...なんていうのを作ったのが12歳の時だ。
あはは、あれ以来だなぁ、大丈夫かしらん
学生や先生の俳句を直してやって欲しいなんて期待されてしまったけれど 直せるかナァ...
逆に添削されちゃったりして(笑)

セビリア大学は
あのカルメンで有名な 元タバコ工場だった立派な建物です。

私は一時血迷って ここに再度入り直そうとして
学科に通っていたことがあります。
夜はタブラオで踊って 
朝は暗いうちからこの大学に通ってまして 
それはもう冬なんざ 星座が見えるくらいに暗くて
天井の高い壮麗な学府の
寒い事といったらなかったです。

いやだなぁ 俳句上手くできるかしらん。
ロドリゲス教授の期待に応えられるでしょうか!!

では、スペインの明日、皆さんには時差で本日
セビリア大学でのにわか助手の奮闘を応援していて下さいね
やっぱり 春の句かな....そわそわ


●2008年03月22日(土)

晴耕雨読

セビージャのこの時期の寒暖の激しさといったらない。
毎年必ず 風邪を引いていて真夜中に街を徘徊できない。

言わずと知れたセマナサンタのクライマックス
木曜のはりつけと金曜の復活は
見逃せない。
あの原始フラメンコのサエタが聴ける。

木曜は大雨が降って雷もしきりだったので
沢山の山車が教会から出なかった。
テレビのニュースで大の男がみんなして泣いているので
娘と二人で呆然と眺めた。
セビージャの各教会に二対ずつあるので
全部で116の山車が出る。
これが確か15キロくらいの行程で
ナザレ人などに扮したお付きというか山車の露払いというか行列隊が一つの教会だけで1500人も居たりする。
これが裸足で受難するのだけど
これがやれないと言って男が泣いているのだ。

日本でも男性は泣くっけ?

なんだか もう分からなくなってきた。
命賭けてるっていうか これに賭けているのだ。

他の物堅い周辺諸国の友達に語ったら
驚いていたから やっぱりスペインは特殊なのだろう。

私は風邪が酷いので とても真夜中に五時間も六時間も
山車を見に行けないので 長女が友達と連れ立って
出かけて行った。

明け方に帰宅を告げに来て 少し寝てから
昼過ぎに言うには
「もう死にたいくらいに辛くて 夜は自分はもたない」ということだ。もうこういうことになると異民族としか思えない。
みんなは一晩中 起きていて朝の11時まで山車を追いかけていたという。
うちの日本起源の娘は 午前五時までしかもたなかったと告白。

11時まで練り歩いた挙句にそのまま長距離バスでウエルバまで
デートに行った子もいたという。

つくづく宵っ張りな強い国民だと思う。

この後、フェリアがまた24時間体制で一週間なのだから
祭りも相当好きでないと続く物ではない。

ああ、風邪気味でこんなのに出かけたら一週間は寝込んでしまう
私に違いない。

●2008年03月20日(木)

Padre Gutierrez


娘がずしりと重い美術の本を二冊も抱えて帰って来た。
一つは
japon y Occidenteという題の
緒方光琳だの北斎だのの絵が沢山入った
とても立派な本だ。

どれどれと作者の名前を見ると
イエズス会士で 上智大学の元教授の
Fernando Garcia Gutierrezとある。

ああ、これはあの有名なグテイエレス神父様ではないかしらと
胸がざわめいた。

私は在学中に この先生に面識があったように記憶している。
少なくとも Padre Gutierrezと言う
お名前は 耳に馴染むほど聞いている。

とても懐かしく、どういうご本を書かれたのかと
読み始めてみた。

これが一読して始めのページから非常に感動した。

この先生はヘレス生まれのアンダルシア人なので
その母国語で書いていらっしゃるから
多くの英語からの翻訳ものとは違って
行間から溢れるような情熱が伝わってくる。

イエズス会士の博識は有名だけれど
日本の文化をこれほどに研究し尽しておられるのに
まずは驚いてしまった。

美術について語るときに
歴史そのものと
その時代の権勢や哲学というものに余程詳しくないと
関連付けができない。

Padreの日本の歴史に対する正しい把握と知識
日本人の侘び 寂び、についての理解と洞察
本当に頭が下がる思いだ。

これはまさしく
第一級の美術評論家で歴史研究家のお仕事だと強い感銘を受けた。

それにしてもどの行からも 日本の文化への限りない愛着と
心からの尊敬に満ち満ちた文章は
とても説得力に富んでいて
ああ、このような立派な人が日本に長く住んで
誠実な日々で研究を重ね
そうして200ページ余りの立派な本をスペイン語圏の人々に
出して下さったのだなと感概深い。

文章は決して難解ではないけれど
浄土宗の出現などにも詳細しているので
中々小説を読むようには 先に進めない。
それでも芳醇な素晴らしいスペイン語は
これだけでも素晴らしく、何重にも味わい深い。

読破しましたら
是非、スペイン語の方でご紹介したいです。
素晴らしい本です


●2008年03月18日(火)

おさらいとコピー

集中レッスン生が
先月から何人か来ている。中々時間を合わせるのが難しいけれど
お互いに調整しあってわあわあ言って寄り合っている。

一昨日は家まで来てくれて
3/4から飾り始めてまだ金屏風がそろってないひな壇を
あおいで歓声を上げた。
今月中にはちゃんと飾ろう、というスローガンだ。

さて、話題になるのが踊りを習う時に
一曲仕上げるか
細切れで習うか、だ。

これはもうケースバイケースで
どちらと断定してしまうものでもない。
けれども上げてしまわないといけない理由がないのなら
振りは細切れでいっぱい持っているのがいい。
小さいフレーズは練習しやすいし
一つずつ丁寧に完成させて行く喜びがある。
できるようになるのに絶望するほど長くないし
力もつく。

踊りの勉強は語学と全く同じなので
ボキャブラリーを沢山仕込んでおくのは
いつでも有益だ。

細かい物をちょろちょろおさらいしては
物にしていく。

けれどもこれだって要は気持ちの問題で
一曲習ったものを細切れにして
一区切りずつおさらいすれば同じことで

長ければどこで裁断して区切るかって言う勉強もできる。

春だし、楽天家になってお稽古に励むのも一案だ。

さあ、外に出て 練習に行きましょう!

●2008年03月17日(月)

オレンジの花が咲く頃...セマナサンタ

今年もセマナ・サンタの開幕となった日曜日
スペイン語ではDomingo de Ramosと言う。
枝の日曜日。
何のことですか?枝って...?

英語ではパーム・サンデー Palm Sunday、「椰子の日曜日」の意味だと言うけれど 椰子、何で?みたいになるのではないかしら。椰子もしくはシュロ

シュロの枝がスペインの町の家の窓によく飾られている
あれの事だけれど これは聖書を紐解かないといけない。

エルサレム入りしたイエスを歓迎するために人々が道に敷いたらしい。聖書を探してみると こんな記述がある。

マタイ:大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。

マルコ:多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。

私は聖書にそれほど詳しくないので 出典はこの辺りかなと思っているのですが どなたか詳しい方がありましたら是非
加筆ご教授くださいね。

さて、復活祭の金曜がメインで その前の日曜から
いつも始まります。
そして金曜日になると大変です。サエタ合戦。

木曜が はりつけになった日ですから
この日は流石のフラメンコもお休みになります。
踊りの練習もしてはいけない。
キリストを亡くした痛みに敬意を表さないといけないのです。
喪に服します。

復活祭前の一週間は「聖週間」「受難週」等と呼ばれています。これがすなわち セマナ・サンタですが、
日曜から始まって
聖月曜日、聖火曜日....と呼んで行き、学校はお休み、銀行や官公庁、商店もこの週間は時間が変わったり
お休みになります。

全ての山車は セビリアの大聖堂がコースになっていますから
中心街は人でごった返します。
もう一日中、真夜中も人でいっぱいです。
真夜中でも山車がコースをたどって行きかっているからです。

物凄いエネルギーだといつも感心します。
何年いても感心する。
これだけは 毎年寸分も違わずに行われますネエ...
命賭けてますねぇ....
これとフェリアは24時間体制で一週間ひっきりなしですが
よく命が続きますね 
根気も意欲も。

仕事はセマナ・サンタが終わってからっていうフレーズで後回しになり、色んな事が遅れに遅れて仕事は
一向にはかどらなくなります。

これが終わった後に2週間であの 盛大なフェリアが始まるので
もう スペイン南部は都合一ヶ月くらい全部が停止です。笑
不思議とこの時期は病院も空いてる。
患者もあんまり居ない。

この辺りの季節になると
もう四半世紀もここに居るのに
どうしても 自分は外人だといつも思います。

自分はセビージャ人になりきれてないって思うスペイン人も
沢山いるので
そういう人とは 心が通じるお友達だな、と
あらためて考えたりします。

私にとっては
民族と情熱について考える週でもあります 笑


●2008年03月12日(水)

ヘレス・フェスティバルお終い

日本からこれがお目当てでやって来た人も沢山居たようだけれど
セビージャに留学中の人は勉強が途中で切れるというのもあるし
まぁ 行くのもチケットも面倒と言うのでパスの人も多かったようだ。

ヘレスはフェスティバルなんかではなくて
フェリアが面白い。

セビージャのフェリアっていうのは
そのカセータの持ち主に招待された人でないと入れないが
ヘレスのはもっと気前がいい。
踊れる人も沢山いる。
もっとアンダルシアの田舎の感じがして楽しい。

さて、早くも脱線してしまったけれど
ヘレスフェスティバルに出ていた若手の女性舞踊家が
私の知り合いのプロデューサーの舞踊団で契約されているのだけど、これがなんと丸坊主になって出てきたというので
ここ数日悲鳴が飛び交っている。
誰の悲鳴ってプロデューサー側の。

フラメンコの伝統的な舞台をするのに
坊主頭でバタデコーラで出てこられたら
一貫の終わりだ。
こんな変なもの 誰も見たくない。
坊主頭とバタの組み合わせの奇矯さに神経が集中してしまって かんじんの音楽に注意が行かなくなる。

もうあと少しで舞踊団の仕事が迫っているのに
坊主でどうしよう!!付け毛はない?
というので 坊主ではヘアピースもよりどころがないから
エクステンションでごまかすしかないのでは?
これならピンでなんとかなるかもしれないと提案したところだ。

プロデューサーはピンで留まらなかったら
接着剤で貼り付けると鼻息も荒く、
本当にフラメンコのアーティストは嫌だとこぼしていた。

私は自分の主宰公演ではないから
アドバイスとか相談に誠実に答えてあげるだけで済んでるので
気楽にあはは と笑っていられる
ああーーー良かった この立場で!

実際、公演が終わるまでのこうした芸以外のところでの
苦しみったらない。

挙句にインターネットの発達のお陰で
知ったかぶりのナビゲーターが 横槍を入れてくる。

「だれそれを病気理由にプログラムから下ろしているけれど
コルドバのコンクールで元気に踊ってました。なんでですか?」なんて類の投稿をする。

私のHPだけでは足りなくてあちこちに
友繁晶子は嘘をついてる絶対に何かあると思う
と執拗に言いふらしていたそうで
生徒から聞いて本当に呆れてしまった。

病気と言ったら病気でいいのよ、そうじゃないです?

「実はね、金せびりは一度ならず、その上女癖が悪くて公私混同するのでリハーサルが続けられなくなり、作品に影響するので首にしたのよ」とはまさか言えなくないですか?

主宰者っていうのは断腸の思いですよ、全く。

野生猿の集団みたいなのをまとめるにも
訳知り顔でしゃしゃり出て来るネット訪問客にも。

良くない時代になったものだなぁ、と思いますね

エレガントに含んでおくって事ができなくなりました。

●2008年03月10日(月)

クリスチャン・ツィマーマンのコンサート 翌日編


始めにアナウンスでプログラムの変更がありました。

予定されていたベートーベンの32はやらない
替わりに悲愴だと場内に知らされた時に一声高く誰かが野次を飛ばしました。

さて、バッハ、ベートーベン、モーツァルトと 二部の最後はショパンのPソナタ三番がもう、素晴らしい情熱で演奏されて
アンコールでは 何か彼が聴衆に向かって話しまして
それで情熱的に何かを弾いたのです。これが何だったのか
素人の私には分からなかったのですが初めて聴く曲ですがしっかり覚えていました。

翌日、準備ができなかった32番というのはどんなに難しい曲なのかと思って
調べていましたら 
まさにツィマーマンがアンコールで弾いた曲だったのです。

先に帰ってしまつたピアニストと 32を最後は弾いたみたい
そんなわけがない あれは長い曲で後で弾くなんてことがないと言いまして
信じてもらえなかったのですが 笑

32の二楽章は聴いた記憶がないから一だけ弾いたに違いないと言いますと
ますます信じてもらえずに面目丸つぶれでした 笑

昨日の音楽批評にツィマーマンは
自分は32を用意できなかったけれど一楽章は弾けると聴衆にことわりを言いまして
アンコールで最後にこれを弾いたのだとあったそうです。

凄く嬉しかったです。
あの聞き取れなかった言葉はこれだったのかと思うと同時に
この音楽家の誠実と辛さを思って感動しました。

一流の看板を背負っている人の苦しみは
やっぱりどの舞台に出ても初めてのときのように苦しいものだと思います

まして野次られて

これから出ようとしている舞台の袖の彼に聴こえなかったわけがないです。

彼はずっと演奏の最後まで 胸にとげを刺したままだったと思います

つらーーーーーっと厚かましいアーティストっていうのは 
そう国際舞台で居るとは思えないし
ましてクラシックはそれほど甘い世界ではないから 
やっぱり彼はとても苦しかった。
あんなに音響と調律に拘る人が こういうことが平気なわけないです。


今の自分を正直に打ち明けながら なんとしてもファンにありのままの自分を与えて許して欲しかった

私は アーティストで居る事の辛さと
芸に対する苦しみと誠実を考えて
とても感動とも同情とも同感ともいえない激しい思いに
揺さぶられました。

素晴らしいアーティストであることに違いはないです。
それはクラシックの門外の私が彼の輝かしい芸歴を
見て鵜呑みにしたからではありません。
偶然の出来事から この人の心中を垣間見て
感じた事です

この人のコンサートに行って良かったです
とても教えられるものがありました。 


●2008年03月07日(金)

Krystian Zimerman のコンサート

これは日本語で何と発音するのか良く分からない。
クリスティアン・ツィマーマン、苗字はツィメルマンとかジメルマンとか色々に表記されるしい。ポーランドのピアニストだからお国での呼ばれ方がどうなのか、ジメルマンが一番近そうだ。
個人的にはツィメルマンの響きのが好きなのだけど。

さて、週の半ばで休みでもなんでもないのに
いきなりセビージャのオペラハウスにかかって
ほとんど完売状態間近、是非行きなさいという
ピアニストの知人の推薦があったので 
少し気がすすまないままに
でも期待して出かけた。

私の大嫌いなマエストランサ劇場は天井桟敷まで満席。

2000人強入るのだったと思うから 
物凄いひな壇にびっしり。

それに比較して舞台はというと、
小柄な総白髪の紳士が一人で現れて ほほう、とうなった。

ピアノソロっていうのは初めてなので
でーーーーーん、とグランドだけが置いてあって
一人で勇敢に出てくるって所だけでも 偉いなぁ....と
プロの重みと
彼の全人生が偲ばれて 感激の体制は整った。

バッハに始まって
ベートーベンになり
モーツアルトと最後は情熱のショパンで締めくくった。

ソロピアニストのプログラムって80分は当たり前なんだそうで
これは大変な事だと思った。

二部になってからは情熱に燃えた演奏になり
ショパンでは弾き終わった途端に足を投げ出したから
うん、うん、と同情することしきり。

勿論、三曲しか弾けない私には、
世界のどんなピアニストだって素晴らしいと思えるくらいなのだけれど
このピアニストは どういう人なのかなと
ー私はいつも後になってから調べる癖がありますー
調べてみた。

そうしたら演奏中ずっとかすかに気になっていたことが図星だったと分かってとても嬉しかった。

ピアノの横腹になんだかサインが見えていたのだ。
製作者の名前なのか本人の著名か分からないけど
絶対この人は自分のピアノを持って来たんだ、と感じていた。

そうしたら何とまあ、こうなのです。
........
ツィマーマンは楽器を自分のコントロール下におくことを徹底しており、公演ではプログラムで演奏する具体的なレパートリーに合わせて自己の所有するピアノを入念に調整し、それを世界中のホールに運搬し持ち込んで演奏することで知られている。更に、公演にはピアノ調律師と同行し、共同でピアノを各会場のホールの特性に合わせて調律するなど、音の響きのコントロールに対し比類のない情熱を傾けている。レコーディング技術や音響学に対する造詣も深く、自身でスタジオを建設したこともある。
...........
やっぱりねぇ....
ソリストでこういう人が絶対に居ると思っていました。

だって劇場備え付けのピアノが気に入らなかったらどうするのかと常々気になっていた私です。

この方は、演奏会場でのリハーサル時間が物凄く長いらしい。
何度もピアノを人に弾かせて、劇場のあちこちで音量を計って
そうして演奏の音を決めると言うのだもの。
更にお客の入りも考えて 満席の時には異なってくる音響も考え抜くらしいです。

そうだろうなぁ と常々思っていたのだけど
やっぱり そうするか!!

次に驚いたのが
自分でピアノを製作できるって言うことだ。
ポーランドと言う国はとても貧しいから
物資の調達が困難で、ジメルマンはピアノの修理や部品の製作を学生の頃から自分で手作業でしていたって言うのです。
調律する音楽家っていうのは聞くけれど
作るって人は始めてです。しかもピアノだなんて。
...この辺の剛毅さがなんだかとても尊敬の気持ちを呼び覚まされます。

ピアノを自分で調律したり
部品をいじったりすると
又違う側面から ピアノへの理解が高まって
違う種類のピアニストになるのではないかしら。

何しろ日本ではもう100回も公演していると言うから
日本の皆さんの中に詳しい人がいて
釈迦に説法かもしれませんが
全然知らない、フラメンコしか知らないって人も
ここに来てくれると思うので
蛇足ながら クリスチャン・ジメルマンについて
芸歴を加筆しておきます。


1956年12月5日、ポーランド南部のザブジェに生まれる。5歳の頃父からピアノを学び、7歳からアンジェイ・ヤシンスキ(Andrzej Jasinki)に師事した。1973年のベートーヴェン国際音楽コンクールで優勝後、1975年の第9回ショパン国際ピアノコンクールに史上最年少(18歳)で優勝し、その後も着実にキャリアを重ね、現在に至っている

...........

何ていうか、今、この現在に一緒に呼吸している
アーティストを知るって 
それは本当に幸福な事です。

こういう芸歴を持つには
生まれてから全ての時間を
ピアノの前で過ごしたに違いなく、
その辺の人のように時間を使った事が無い、
そういう特別な人生だったに相違無いのです。

ああ、拍手はフラメンコで鍛えた筋金入りの大音声で!!



●2008年03月04日(火)

ひな祭り、ああ、後手後手

日本はもう夜明けて四日になってしまったけれど
こちらはひな祭りの晩です。

少し打ちひしがれております。

もう何ヶ月も前から飾ろう 飾ろうと勇んでいた
雛人形をついに飾らないで
箱だけうず高く積んだまま。

今朝の早くにやろうかなと思いつつ
やっぱり忙しくて全然出来ず
子供達の思い出に残るような
雛料理というか かわいいお人形の顔した
マッシュポテトとかで何かやりたいと
毎年思うのに
できない。

こうやって何もできないうちに子供の
子供時代も何もかも終わってしまって
私はしてやりたかった というのだけなんだな、と
打ちひしがれてます。

甘酒とか桜餅とか、ああ日本に居たらナァ...
私はこういうことを ちゃんと家庭でお祝いするのが
大好きなクラシックタイプなのだけど
外国で一人でみんな生産するのは大変だ。

八段飾りを頑張れなかったのは
雛あられも 何にも無いのが
辛くって 元気が出なかったためかもしれない。
もう二年も続けて飾れていない。

本当はご法度だけど
今週なんとか飾って3月いっぱいそのままにしておこうかしらん。

嫁き遅れるったって 結婚が全てではない昨今
ーて、ここだけ突然クラシックでなくなるー
雛人形くらい飾っていたっていいじゃないの、て
開き直る私です。

http://www.flamencoole.com/

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