●2009年06月30日(火)
ケリーに再会 私のわくわくスペインを読んで下さった方には思い出していただけると思うのですが、ケリーというアメリカ人の友人が当時、セビージャに居ました。 彼女は米国の有名大学で政治科学と訳すのでしょうか ポリティカルサイエンスを専行して、日本とスペインで学び、 私が知り合った90年前後には私の長女より半年早く生まれていた 赤ちゃんの母親でした。まだ確か25歳くらい。 私がケリーに出会った時は、私は長女がお腹に居た大きなお腹の妊婦でした。出産の先輩として色々アドバイスをしてくれましたが 私達はお互いに英語と日本語を復習する目的で、つまり交換教授をしようというので週に何回か会って勉強もしていました。 ケリーは 結婚に敗れて本国に帰るのが この赤ちゃんが五歳前後だった時で、つまり私達はその長い期間、良い友人であり続けました。 私には彼女のとても辛い、苦しい結婚生活が分かっていたので 最後にいよいよ子供を連れてアメリカに帰る、その日に幼いノエリを連れて空港に見送った日のことが何度も目の前に浮かんでくる そういうお別れをしたのでした。 その後、ケリーの子供がなついてしまって、子供に引っ張られる形でデートが始まるという素敵な男性との出会いがあって幸福な結婚をしたところまでを私は後に知りました。丁度タマーラが二歳くらいの頃にケリーが次男の赤ちゃんを連れてセビージャで再会しました。 お互いの無事と子供達の健康を祝いあった賑やかで嬉しい再会でした。 ところがその後です。度重なるお互いの引越しで うっかりした途端に私達はお互いの連絡先を無くしてしまいました。 そうして 残念で失望する辛い気持ちの上に14年の歳月が降り注いでしまいました。 大海に落としてしまった一滴の絵の具のように 私はケリーの消息を広大なアメリカ大陸に無くしてしまったのです。今回の渡米に際してどうしても会いたいと思い続けていたのですが 八方手を尽くしてもう駄目だという時に別のアメリカの友人がグーグルでケリーを見つけてくれたのです。 「彼女はブロンド?」 「スペイン語の教師として出てくるけど。」 「コーネル大学でポリティカルサイエンス専行した?」 もう、こうなるとほぼ間違いがありません。 続く経歴には 日本とスペインに留学とあります 決定的に間違いなく、私のケリーです。 もう、それからはただの一日も待てない焦燥に駆られて 学校に電話し、いにしえの彼方から引っ張りだした英語で伝言を録音しました。 そうして 同じ思いのケリーが時差を配慮して六時起きで電話してくると もう私達は電話が切れてしまうのが怖ろしいような強迫観念に襲われつつ 短時間に慌しく消息を伝え合ったのでした。 まぁ、これが聞けば一筋縄ではない彼女のその後の奮闘の人生だったのです。 長くなるので この素晴らしいケリーの帰国後の奮戦については後日にあらためます。 とにかく私達がこの夏、ボストンに行くと言うと そこからノエリの大学まで送って行くと言ってききませんでした。 彼女の自宅から車で五時間もかかります。 何度も辞退しましたが 聞きません。 そうしてついに厚意に甘える事とし、ボストン空港でケリーと あの赤ちゃんだった、今は14歳の男の子と、そうしてノエリとともにかわいがったケリーの長女クリスティーに再会したのでした。 もうもう、みんな立派な美しい子供達に育って 会うなりお互いに打ち解けて話し始め、 私とケリーはすっかり老けて(笑) 本当に有りがたいことだと思いました。 ケリーの運転するバンに総勢6人が乗り込み、 賑やかに大学キャンパスに乗り入れたのでした。 自力で行ける気で居ましたが、ケリーが主張したように 実際大きな複雑な空港から行けたかどうか分からないくらいでた。 雨まで降ってきたし、日本やスペインと違うから一歩間違えると大変なのだとケリーが言ったとおりでした。 みんなでその晩はキャンパス内のホテルに宿泊するほどの手厚い送迎で でも確かにそれは必要でした。 往復10時間もかけてケリーはとりあえずノエリの入寮まで見届けて くれました。教師だけあって色々と心配してくれて 担当の学部長にも質問してくれていました。 突然に彼女の徹底した性格を思い出した私です。 積もる話はダイジェスト版で片付けて 次はNYで会おうと約束して別れました。 いつまでも立ち去りがたくているケリー達でした。 美しい素晴らしい再会が出来て、まずまずの滑り出しだったのです。本当に感謝の気持ちでいっぱいです。 年季の入った若い頃の友情ほど嬉しい物はないですね。 では、皆さん 今日も素晴らしい一日でありますように。 私はこれからちょっと復習してクラスに向かいます
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