始めにはっきりとお断りしておきたい事があります。
私は自分自身は多くのコンクールに出場し、受賞もしていますが、これを一つも誇りにしていません。
あれらは、長い芸歴の途中でたまたましたバスストップとしか真実思っていません。
では舞踊家として何を誇りとしているかというと、それは素晴らしい芸術を感得できる感受性と確かな感覚を養えたということ、ある芸術が本当に価値あるものかどうかは、その人の輝かしい芸歴を読んだり、著名な評論家の意見を鵜呑みにしなくても自分の力だけで分る経験が積んであるということです。
これこそが幼少から稽古で培って来た私の唯一無二の財産なのです。
更に、その素晴らしい芸を身につけるためにどれ程の時間と苦悩と情熱と失意をそのアーティストが乗り越えてきたか、が一瞬にして理解できる能力を誇りに思っています。
普通の観客よりより深く、より激しい共感を持って見ることができることを本当に有り難いと思っています。そのために私の半生はとても豊かだったと言えるからです。
ここに舞踊家を育てるにあたり、子供達に何を望んでいるかというと、そのような感覚、そのような感動を自身の鋭い芸術的鍛錬によって持って欲しいということです。
私のスクールでは、コンクールや教師になる事を子供の習い事の目標には絶対にしません。これらの経験は、修行の中で通るただの駅であって、最終でも最初の目的でも断じてあってはならないのです。
踊りというのは確かな技術と感受性で踊られるもので、芸歴に箔をつけるのは二の次でなくてはなりません。更に、素晴らしい天性の踊り手には箔などいらないのです。見ればわかるのですから。
何のための芸術か。
受賞のためではありません。
弁護士資格や英語検定とは違うのです。
人生がより豊かに、人生に付き物のあらゆる大小の不幸に出会っても、それを乗りきる精神の潔さと強さと柔軟性を養って欲しい。
これこそ芸術の持つ力なのです。
そのような無形な物を私は子供達が感得できるように応援し、小さな魂に何らかの美しい強靭な力が備わるようにしたい。
私が子供クラスを開講した目的はひたすらにそのためです。
この厳しい世界で、真に価値ある、人生で最も大切なものというのは「全て無形なのだ」、ということを踊りを通して知らせることができたら教師として、アーティストとしてどんなにか報われることでしょう。
無形の物の価値が分かる人というのは、無形に対する不安を感じない人です。
幸福も愛情も感動も数値で出せない。出せなくても泰然としてそれを感じることができる、それがつまりは私が子供達に伝えなくてはいけない大前提なのです。
それらの過程でコンクールに挑戦しても、教師になっても、はたまたヨーロッパやアメリカに留学しても、それは刺激として良いことかもしれませんし、そのために応援もしましょう。
ですが、それはあくまで芸術を自分に引き寄せ、引き寄せられる途中のバスストップ以外の何物でもありません。
そのような大きな無形の素晴らしいものを感じる人を育てたいのです。
情操教育、情操教育と叫ばれていながら、父兄も社会も本当にはそこに気がついていないことがあまりに多いのです。
私は世界中の子供をみんな養子にしてしまいたいくらいに子供が好きで仕方がありません。ですから、私のスクールにお子さんを預けてくださるなら、まず、この主旨をご理解いただきたいと思い、ここに拙い私の文章を掲載して一助となることを願っています。