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マイヤ・プリセツカヤ(1925〜)Maya Plisetskaya
ロシアには何代にも続いてバレリーナを出す家系が多い。というより優れたバレエダンサーを身内に持つと必ずその後継者になろうとするものなのかもしれない。プリセツカヤも名バレリーナを一族に持つ。 この美貌のバレリーナはモスクワに生まれたが、その半生は決して楽観的には読めない苦しみに満ちている。 幼少時に政治犯として父親を処刑され、母親は収容所に連れ去られた。そうした逆境にも負けずにひたすら芸の道に精進し続けて世界的に有名なプリマの名をとどろかせるに至るが、著名人となってからも共産国政府の執拗な監視と(亡命させないため/何年も外国公演を許可しないなど)干渉は彼女の意欲的な作品の公演禁止など多岐に及んでいる。 バレエにカルメンを振りつけたのはプリセツカヤが最初だ。常に意欲的にダイナミックな持ち味を生かした反骨のバレリーナの素顔がのぞく。 なお、芸風としてはその初期の頃は長すぎる手脚を持て余して困ったということだが、特徴的な美しい腕の瀕死の白鳥は名高い。 長年、この人を一目見ようと躍起になっているがいつも行く先々の国ですれ違いになってしまっている。99年には日本公演があったくらいなのに、こんなに現役の長いバレリーナはいないのだからもう、見れてもよさそうなのに実現しない。 このままついに見れないのではないかと悲しい気持ちにいたたまれなくなるくらいだ。 マイヤ・プリセツカヤ自伝「闘う白鳥」 山下 健二訳 文藝春秋
ロディオン・コンスタンチノヴィチ・シチェドリンは1932年12月16日モスクワに生まれる。モスクワ音楽院で教鞭を取っていた父親の薫陶を受け、同音楽院に入学、ピアノをヤコブ・フリエール、作曲をユーリ・シャポーリンに学ぶ。交響曲第一番とバレエ「せむしの仔馬」で作曲家としての地位を確立したと言われている。彼が激動のロシアを決して離れなかったのは、プリセツカヤの西側亡命を恐れた当局が四六時中監視し続けたからだと伝えられている。 プリセツカヤの写真とビデオその他の情報:
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